郷土の先人を探す:花巻市の先人や、業績の概要について探します。

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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。

200 件の情報が見つかりました。

氏名 地区 業績
工藤敬次郎くどう けいじろう 石鳥谷 ”医師・村長として活躍した”
 明治11年(1878年)7月10日、戸塚で生まれる。明治35年に内閣省開業医検定試験に合格後、警視庁の監獄医を勤めたのち、神奈川で開業する。その後、帰郷し新堀で開業した敬次郎は明治41年に関口に移り開業した。村で唯一の開業医であった敬次郎は、多忙を極めたが生活が困窮している人には無料で診療にあたるなどしたその姿勢は、村民からの信望も厚かった。明治41年に八重畑村信用購買販売利用組合(産業組合)が設立されると理事に選任され、のちに組合長に就任した。八重畑村々会議員に当選したほか、稗貫郡会議員、村農会長を務めた。永年にわたり学校医として務めたほか、八重畑村学務委員も務め教育の振興にも尽力した。昭和28年(1953年)1月12日に亡くなった。
工藤善太郎くどう ぜんたろう 石鳥谷 ”内村鑑三に共鳴した名教育者”
 明治7年(1874年)7月6日、戸塚で生まれる。祖父は北家の家臣として藩政に活躍した荻蔵、父は教育に携わり新堀村長も務めた虎太郎。明治28年岩手県立師範学校を卒業後、花巻町内で教育に携わった。のちに花巻小学校の校長、盛岡市城南小学校訓導、亀ヶ森小学校、矢沢小学校、八重畑小学校の校長を務めた。学者肌の温厚な人格者で、生徒にも地域の人々からも親しまれていた。内村鑑三の共鳴者でもあり、内村の思想や人格が善太郎の教員生活に影響を与えた。大正14年に八重畑小学校を退職後、昭和4年には新堀村議会議員、昭和6年には新堀村長に就任した。昭和20年(1945年)5月4日、72歳で亡くなった。
其阿円護ごあ えんご 石鳥谷 ”時宗総本山の住職を務めた”
 寛永15年(1638年)に相州(神奈川県)に生まれた。12歳の時に得度し、時宗本山において修行を重ね、光林寺の住職となった。寺格の興隆や末寺の復興に尽力した。のちには時宗の総本山 藤沢山無量寿院清浄光寺45代を引き継ぎ、住職を務めた。器朴論御考合(三巻)を著述し、宝永4年(1707年)10月1日、70歳で亡くなった。「生身を死して仏に仕う身の、ほかにもとむな、南無阿弥陀仏」という句が残されている。
其阿存冏ごあ そんけい 石鳥谷 ”光林寺の興隆に尽力した”
 寛文3年(1663年)に紫波郡桜町村の遍照寺(赤石道場)の住職のもとに生まれる。存冏13歳の時に光林寺に入山。17歳で剃髪し、同年9月に本寺の藤沢山無量寿院清浄光寺(神奈川県藤沢市)に登り、弟子となり修行を重ねた。元禄9年(1696年)、光林寺の住職となる。元禄9年(1696年)から享保6年(1721年)の26年間、光林寺の住職を勤めながら、末寺東陽寺の住職も兼務した。享保3年(1718年)には光林寺の歴史を綴った「光林寺起志」を著した。享保6年(1721年)7月20日に59歳で亡くなった。
後藤清郎ごとう せいろう 石鳥谷 ”岩手日報の礎を築く”
 明治22年(1889年)1月21日、当時の好地村(現石鳥谷町好地)で生まれる。大正7年(1918年)に報知新聞社に入社し記者生活をスタートさせた。その後東京日日新聞社(のちの毎日新聞)で働き、大正12年7月には岩手日報に主筆として迎えられた。昭和13年(1938年)岩手日報の経営が揺らぎ財界人が岩手日報の経営権を握ったことに対抗し、新岩手社を立ち上げ「新岩手日報」を創刊した。深刻な経済不況の中、岩手日報社は廃刊となったが、「新岩手日報」は勝ち残った。昭和17年9月、新岩手社の初代社長に就任したが、昭和19年(1945年)2月1日に56歳で亡くなった。
後藤 清郎ごろう せいろう 石鳥谷  後藤清郎は、明治22年(1889年)に旧好地村に生まれた。県立盛岡中学校(現・盛岡一高)から仙台の旧制第二高等学校を経て、東京大学に進学。卒業後、報知新聞社から東京日日新聞社(後の毎日新聞社)を経て、大正12年(1923年)に岩手日報に主筆として迎えらた。
 入社後直ちに、東北の他地方に先駆け、夕刊を発行。また、朝刊に市内版を採用するなど、当時としては画期的な読者サービスを行いました。
 権力におもねることなく、論調は常に反官僚と反軍閥を貫き、軽妙な筆づかいと優れた表現力で、多くの読者に支持された。
 その後、旧盛岡銀行系の財界人が岩手日報の経営権を握ったことに抵抗し、清郎は従業員74人とともに日報社を離れ、昭和13年(1938年)に新岩手社を設立。「新岩手日報」を創刊し、清郎は責任者として経営に全身全霊を打ち込んだ。同年9月、岩手日報社は経営難から廃刊し、「新岩手日報」が勝ち残った。
 「新岩手日報」は、昭和26年(1951年)に社名とともに名称を「岩手日報」に改め、現在に至っている。
佐々木伊四郎ささき いしろう 石鳥谷 ”南部杜氏組合の創設に尽力した”
 嘉永元年(1848年)11月3日に新堀の農家で生まれる。安政年間(1854~1860年)に八戸地方で酒造に携わる。明治20年代の東北地方を代表する酒造改良教師から、酒造りの指導を受ける。青森県で杜氏として40年余り勤めた間、多くの杜氏を養成したほか、岩手・青森両県の醸造家数十軒の指導にもあたった。南部杜氏組合の創設にも貢献しており、創立時から三期に渡り理事を務めた。大正11年には伊四郎の功績を称え、郷里の新堀諏訪神社境内に松尾大神の碑が建立されている。昭和2年(1927年)8月2日に79歳で亡くなった。
佐々木キミヨささき きみよ 石鳥谷 ”助産婦として母子福祉に貢献した”
 明治36年(1903年)8月15日に紫波町彦部で生まれる。盛岡産婆看護学校、盛岡実践女学校を卒業後上京した。大正15年(1926年)好地で助産婦を始める。当時産婦人科病院が少なく、多忙の毎日と苦労の連続であった。助産婦としての45年間、取り上げた赤ん坊は九千人を超えるといわれている。昭和41年(1966年)石鳥谷町に母子健康センターができると、同所長に就任し、妊婦の指導、母子福祉面も担当し職務にあたった。石鳥谷婦人会長、町連合婦人会長、同更正保護婦人会長なども歴任し昭和48年には優良助産婦として厚生大臣より表彰を受けた。翌年の49年には、勲六等宝冠章を受賞した。昭和55年(1980年)4月17日に77歳で亡くなった。
佐々木甚右衛門ささき じんえもん 石鳥谷 ”農政・農業技術指導者として活躍した”
 明治23年(1890年)4月10日、新堀の養蚕を営む家の長男として生まれる。父が病身のため少年期より35年間養蚕業に携わった。少年期より亡くなるまで一日も欠かさず、その日の天候、気候、寒暖等を記載した「農業日誌」を書き続けたといわれている。昭和8年(1933年)の凶作には、農民の先達として指導的役割をはたした。昭和30年には新堀堰土地改良区理事長に就任し、区画整理などを行い水田を大規模化した。農作物にも力を入れ、米・リンゴ・大麦・小麦・大豆・白菜・甘藍等も競作会において最上位入賞をした。
 こうしたことから、村や町県国などから表彰状、感謝状を受章し、その数は150に及ぶと言われる。昭和48年には内閣総理大臣より黄綬褒章が授与され、同4月5日には功績を伝える顕彰碑が建立された。昭和52年(1977年)9月28日に88歳で亡くなった。
佐々木春次郎ささき はるじろう 石鳥谷 ”南部杜氏協会長を歴任した名杜氏”
 大正元年(1912年)11月25日に新堀で生まれた。昭和8年当時としては最年少の21歳で杜氏の試験に合格した。
 その後、昭和13年に醸造工長の資格を取得し、18年には南部杜氏組合両磐支部長に就任、のちに同協会長となった。また、昭和46年には全国杜氏組合連合会副会長に就任している。南部杜氏協会長や全国杜氏組合連合副会長などの要職を歴任した。昭和42年に財団法人日本醸造協会長より表彰を受け、47年に岩手県知事表彰、49年には岩手県技能検定協会長より表彰を受けた。52年には杜氏としての功労により黄綬褒章が授与された。平成10年(1998年)4月1日に86歳で亡くなった。
佐藤小次郎さとう こじろう 石鳥谷 ”八重畑の教育に尽くした”
 明治4年(1871年)7月6日、八重畑で生まれる。明治27年3月に岩手師範学校卒業後、気仙沼、八重畑、紫波、矢沢、花城、橋本、大瀬川などで教育にあたった。30年間の教員生活の中で20数年間は、八重畑村の学校で指導にあたった。教育振興から村の発展が生まれるという信念を持っていた小次郎は、私費を投じて様々な事業を実践していった。昭和5年(1930年)5月7日に59歳で亡くなった。八重畑村の熊野神社境内には教え子たちにより、小次郎の功績を讃える彰徳碑が建立されている。
佐藤コナミさとう こなみ 石鳥谷 ”婦人のかがみと慕われた”
 明治11年(1878年)12月20日、気仙郡横田村(現陸前高田市)に生まれる。明治28年に結婚後、夫の転勤を期に八重畑に移住する。大農家に嫁いだコナミは、家業一筋に働いた。夫が青少年や婦人会を指導することになった際には、自らも指導者として活躍した。特に八重畑地区の婦人たちの婦徳修練や家事経済などを目的として設立された母道会には努力を惜しまなかった。大正8年(1919年)7月30日に41歳で亡くなった。八重畑熊野神社境内にある夫の彰徳碑の横に「かがみ乃碑」が母道会の会員によって建立された。
佐藤正雄さとう まさお 石鳥谷 ”原敬とも親交のあった政治家・産業人”
 慶応二年(1866年)正月元旦に新堀で生まれる。24歳の頃、同郷の太田代寿太郎、折居橘弥、嶋森徳治らと共に、石鳥谷町における社会教育団体の先がけでもある青年会を結成。明治37年(1904年)2月に新堀村長に当選すると、桑園を造成し養蚕業を行うなど産業の振興に尽力した。また、村の教育の振興にも力を注いだ。明治40年、稗貫郡会議員を当選した際には、衆議院候補として名が挙がるほど頭角を現していた。政治家としてだけではなく、岩手県種苗株式会社や佐藤酒造店の経営にもあたった。大正10年(1921年)11月16日、56歳で亡くなった。
清水秋全しみず しゅうぜん 石鳥谷 ”道中図「増補行程記」を著した”
 宝永三年(1706年)に花巻で生まれる。若い頃から学問に励み各分野で知識や技術を修めていたが、特に国学と和歌に優れていた。他にも算学や測量などにも優れていた。寛延4年(1751年)七代藩主の命を受け、盛岡の中野橋から江戸日本橋までのおよそ百四十里(約550キロ)の風景や町並み、名所、旧跡などを描いた『増補行程記』の製作に取り掛かる。この行程記には建物や名物、名産、名勝地など克明に記録されている。『増補行程記』二巻の他に『名所道順記』『神代文字四十三種の伝』などの著書がある。
 明和3年(1766年)61歳で亡くなり、盛岡市北山の東顕寺に葬られている。
菅原佐平治すがわら さへいじ 石鳥谷 ”戦後の食糧供給に力を注いだ”
 明治23年(1890年)5月6日、大瀬川で生まれる。県立農学校(現盛岡農業学校)を卒業後、盛岡・青森・宮城・岩手の営林署に勤務する。昭和13年(1938年)から終戦までの8年間に川尻営林署に勤務した。ここで役人生活を終えたのち、昭和21年に石鳥谷町農業会長となる。昭和23年7月に農業協同組合発足に伴って、石鳥谷町農業協同組合 初代組合長として県農政の指導にあたった。また、昭和24年5月から26年4月まで旧石鳥谷町議会議長を務めた。石鳥谷町の農業の振興に尽力した佐平治は、昭和43年(1968年)10月17日に78歳で亡くなった。
鈴木金吾すずき きんご 石鳥谷 ”村の発展に貢献すること40年”
 明治3年(1870年)12月11日、新堀の塚原で生まれる。若い時から村政に携わっていた金吾は、大正4年(1915年)新堀村長に就任した。この間に石鳥谷・大迫間の整備のための大迫軌道株式会社の清算人も務めた。稗貫郡産馬組合議員も数度にわたり務め、自ら数十頭の馬の飼育にあたるなど馬産の振興に力を入れた。新堀諏訪神社の経営にも力を入れ、原野と水田を寄進したほか、隣接地も寄進して境内の拡張を図った。村の発展に貢献した金吾は、昭和24年(1949年)4月16日に80歳で亡くなった。諏訪神社境内には、金吾を偲んだ彰徳碑が建立されている。
関秀五せき しゅうご 石鳥谷 ”地方自治・産業等の振興に尽力した”
 明治42年(1909年)8月9日、米穀・肥料商を営む家の五男として生まれる。県立盛岡中学校(現盛岡一高)を卒業後、父が亡くなったため家業に従事する。昭和18年(1943年)に旧石鳥谷町議会議員に当選。21年に農地委員に就任、翌22年には町議会議員に再選された。昭和26年には県議会議員に当選した。実業界においても活躍し、県米穀商業組合連合会業務課長等を経て、県米雑穀共同組合副組長となった。東日本産業㈱や東日本不動産㈱などの取締役等を務め、産業の振興にも尽力した。昭和28年の石鳥谷町、八幡村、新堀村、八重畑村の合併の際には合併推進委員を務めた。
 昭和38年(1963年)10月18日に54歳で亡くなった。
高橋恵喜人たかはし えきと 石鳥谷 ”医療と教育に尽力した元花巻士族”
 幼い頃から勉学に励み漢学や漢洋の医術を学んだ恵喜人は、医師として活躍する傍ら寺子屋の師匠として教育にあたった。明治5年(1872年)、学制発布に伴い小学校教員免許状を取得し北寺林小学校の教師となった。明治10年には種痘医の免許状を取得、17年には内外科治療に於ける免許を取得した。医師・教師として地域から厚い信望を受けていた。明治14年北寺林小学校を退職、明治23年8月16日に44歳の若さで亡くなった。翌年には、教え子や関係者により北寺林の稲荷神社境内に記念碑が建立された。
高橋勘次郎たかはし かんじろう 石鳥谷 ”土仏観音堂を建立した南部の名工”
 初代勘次郎は、寛政5年(1793年)に花巻の吹張町で生まれた。気仙大工から宮大工を学び、のちに仙台で修行を重ね、嘉永6年(1853年)には長男の豊吉と共に近畿、山陽地方で遊学をし帰郷した。大興寺境内にある土仏観世音堂は高橋勘次郎親子の作品と言われている。これは、勘次郎親子が七年の歳月をかけ、弘化3年(1846年)3月に完成させた。代表的なものに、宮野目三獄神社拝殿、盛岡市北山の願教寺本堂向拝の竜蟇股の彫刻がある。慶応元年(1865年)に73歳で亡くなった。
 二代目勘次郎と言われた豊吉は、初代勘次郎の長男として文政2年(1819年)に里川口村(現花巻市)で生まれた。叔父の橋本雪蕉に下絵のための絵画を学び、父をしのぐ名工となった。県内には豊吉の建築した社寺が多く残されているのが、代表的なものに花巻市矢沢の胡四王神社の拝殿及び上り下り竜の彫刻、鳥谷崎神社本殿、水沢市黒沢寺本堂などがある。明治41年(1908年)に90歳で亡くなった。花巻市松庵寺境内に門弟たちにより「高橋勘次郎翁寿碑」が建立されている。
高橋賢次郎たかはし けんじろう 石鳥谷 ”郡政・村政の進展に寄与した”
 嘉永3年(1850年)11月15日、南寺林に生まれる。若い時から村政に携わっていた賢次郎は、稗貫郡数ヵ村の議員や旧八幡村長などを歴任した。八幡村長を務めている間には、八幡小学校々の建築や食料の確保、桑園の造成などに取り組んだ。農業の振興にも貢献し、耳取川に架設している大樋の替え工事の際には「南寺林普通水利組合」を組織したほか、南寺林・小森林・黒部部落の代表として払下げにも力を注いだ。大正13年(1924年)3月19日に75歳で亡くなった。