郷土の先人を探す:花巻市の先人や、業績の概要について探します。

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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。

200 件の情報が見つかりました。

氏名 地区 業績
大竹三郎おおたけ さぶろう 石鳥谷 ”八重畑の三筆”
 明治17年(1884年)11月23日に八重畑に生まれた。一関中学校(現一関一高)在学中から、柔道や書道、漢学に才能を発揮し、右に出るものはいなかったと言われている。同校を卒業後、八重畑役場に入り、その後、八重畑村助役、八重畑村村長を歴任した。村長在職中に村に始めての電灯を点じさせた。のちに、下閉伊郡小川村長となった。
 晩年には書道を楽しみその能筆は独特な詩情を人に与えるものがあった。昭和34年(1959年)11月9日に76歳で亡くなった。安彦武彦・藤原広寿郎とともに「郷土の三筆」と称された。
大原正蔵おおはら しょうぞう 石鳥谷 ”『八幡村誌』を編纂した” 
 明治25年(1892年)9月30日、八幡の白幡で生まれる。明治40年、八幡村の書記となり、のちに盛岡市役所に勤務した。大正11年からは八幡村の助役として村政にあたった。
 昭和4年八幡村々会議員に就任し、凶作の際の救済事業として道路の建設に尽力した。八幡信用販売購買利用組合(産業組合)の設立にも携わり、同組合専務、組合長を務めた。一方では郷土史家としても活動し、「八幡村誌」を編纂した。昭和13年(1938年)に発刊された八幡村の50周年自治記念誌(八幡村沿革史)の編纂にも携わった。昭和20年(1945年)9月16日に54歳で亡くなった。
大森 堅弥おおもり けんや 石鳥谷 ”岩手県農業の先駆的指導者”
 明治18年(1885年)9月21日、盛岡で生まれる。盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業後、母校の助手となり、のちに助教授として勤務した。その後、県農会技師、県農務課主任技師等を務め、農産物の生産増強、農業日誌の創案、農業保険制度の立案にあたるなど先駆的指導者として活躍した。
 昭和23年(1948年)に、石鳥谷町農業協同組合嘱託技師として組合に携わり、24年には組合参事に就任し農業の推進にあたった。昭和36年5月には、農業の発展に寄与した功績により黄綬褒章を受章、40年11月には勲五等瑞宝章を受章した。昭和43年(1967年)5月13日に83歳で亡くなった。
小野権右衛門勝守(慶善)おの ごんえもんかつもり (けいぜん) 石鳥谷 "石鳥谷で酒造業を営んだ”
 小野権右衛門家は豪商として知られ、8代目権右衛門勝守の時に、紫波町日詰から石鳥谷に移って酒造業を営んだ。
 小野家初代は郡山(現在の日詰)に木綿や小物営業のほか味噌・醤油の醸造など手広く営む井筒屋と称する店をおこした。 井筒屋は代々受けつがれ、名実ともに財界の雄として君臨してきた。8代目権右衛門勝守は、郡山店と盛岡の新丁店(新殻町)で多方面の事業を営んでいたが、盛岡の大火災により石鳥谷に移って、小野家の本店として酒造業を営んだ。銘柄「七福神」「高砂」「幾千代」などの醸造にあたった。明治39年に経営が行き詰まると酒造業を廃業し勝守は京都に帰った。大正8年(1919年)2月30日に68歳で亡くなった。
小原多助おばら たすけ 石鳥谷 ”明治期の地方経済の振興に貢献した”
 慶応3年(1867年)12月10日、五大堂で生まれる。慶応義塾を卒業後、明治33年から38年まで花巻銀行の取締役を務めた。44年に岩手軽便鉄道が設立された際には株主として多額の出資をしたほか、大沢温泉の経営、大沢に郵便局を開設した。明治38年から43年まで八重畑村長を務め村政に尽力したほか、八重畑村学務委員、岩手県教育会稗貫部会名誉会員として村や郡の教育の振興に努めた。明治41年には、工藤敬次郎などとともに八重畑村信用購買販売利用組合(産業組合)を設立と同時に組合長となった。
 さらに五東(五大堂・東中島地区)信用組合長となり、産業・経済発展にも貢献した。昭和26年(1951年)4月3日に85歳で亡くなった。
折居立元おりい りつげん 石鳥谷 “江戸時代に医師として活躍した”
 立元の父も花巻城役医や江戸の南部藩邸の医師を務めた。兄も医師として江戸勤めをしていた。宝暦9年(1759年)に八幡から新堀に移り医業を開業したが、その間の詳細は明らかとなっていない。文化7年(1810年)3月14日に77歳で亡くなるまで新堀で開業していた。新堀の金剛寺に埋葬されている。立元の没後の折居家は、その後も医師として続いた。
鎌田伊代治かまだ いよじ 石鳥谷 ”独自の酒造法を確立した明治の酒匠”
 安政6年(1859年)4月19日に好地村(現石鳥谷好地)で生まれる。気仙郡高田地方で酒造りを始め、それまでの酒造法とは異なる、米の総量と仕込み水が同量の「十水法」という独自の酒造法を確立した。明治34年には自らが発起人となり、酒造人一名が年1円を積み立てる酒造人の共済制度を確立し酒造夫共蓄社を石鳥谷に創設した。大正12年(1923年)4月7日に64歳で亡くなった。鎌田杜氏の酒造法の秘伝一巻、規約章、酒造夫共蓄社名簿などは石鳥谷歴史民俗資料館へ寄贈されている。
鎌田政記かまだ まさき 石鳥谷 ”明治期の県政・村政に貢献した”
 弘化元年(1844年)3月24日、南寺林村で生まれる。明治7年(1874年)に南寺林・小森林の戸長を務めた。明治11年には県会議員となったのを皮切りに県政に参画する。翌12年には南寺林村・大畑村(現花巻市湯元)の戸長に就任し、翌年には学務委員として教育の推進に努めた。明治22年、市町村制が施行された年、八幡村初代助役として村長の補佐にあたり、24年には、第3代八幡村長となり行政組織の確立や村の産業に力を入れたほか、八幡・黒沼・南林の3つの小学校の統合にも尽力した。県政や村政に尽力したが、明治27年(1894年)に51歳の若さで亡くなった。
上川賢悦かみかわ けんえつ 石鳥谷 ”戦時中の八幡村政に活躍した”
 明治30年(1897年)2月11日に八幡村西中島で生まれる。大正11年(1922年)に八幡村役場に勤め、その後同村の助役となり、同12年には八幡村長に就任した。一般物資の不足が問題となっている中、賢悦は農業会長を二期に渡って務め、増産指導と食生活の確保にあたり村政に尽くした。村長退任後は、農業に従事する傍ら葛丸川沿岸耕地整理組合の清算事務に携わったほか、町選挙管理委員長を務めるなど明正選挙の推進に尽力した。昭和60年(1985年)11月25日に89歳で亡くなり、自治・福祉に貢献したことで、国から勳六等単光旭日章が贈られた。
川村与右衛門かわむら よえもん 石鳥谷 ”「川村酒造店」を創業し町政にも貢献した”
 明治18年(1885年)12月25日、好地で生まれた。日詰の高等科を卒業後、農業の傍ら酒造りに携わった。杜氏となってからは、日夜酒造の研究に励み、照源酒造店在職中には東北六県清酒品評会で一等賞を受賞し、全国の清酒品評会でも一等賞を受賞するなど名杜氏として知られるようになった。大正3年7月「南部杜氏組合」が設立され、理事、専務理事を経て副組合長に就任し、組合の発展に尽力した。大正10年、照源酒造店退社後、上好地に川村酒造店を創業した。大正12年には石鳥谷杜氏酒造株式会社を設立し、社長に就任した。
 また、旧石鳥谷町議会議員や同議長、葛丸川沿岸耕地整理組合長などを歴任した。昭和32年(1957年)10月19日、73歳で亡くなった。
川村陸三かわむら りくぞう 石鳥谷 ”行政・教育・司法など町政に数多くの業績を残した”
 明治31年(1898年)10月26日に関口に生まれる。昭和8年(1933年)に、八重畑村青年団長となったのち警防団長、消防組頭を務めた。消防組頭の際には、私財を投じて消防の制服や機器を購入し、火のみやぐらを建設して防火防災に努めた。昭和12年に八重畑村々会議員、16年に村長に選出された。この間にも信用購買販売利用組合長などを兼任し、農業経営の改善に努めた。昭和27年には八重畑村教育委員長に選出され、30年には石鳥谷町教育長に選ばれた。司法面でも司法委員や家庭裁判所調停委員等を歴任した。幾多の表彰や感謝状を受け、昭和49年には勲五等双光旭日章を受賞した。平成7年(1995年)3月10日に96歳で亡くなった。
紀孫治き まごじ 石鳥谷 ”朝鮮の教育に尽くした”
 明治6年(1873年)3月3日に戸塚で生まれた。花巻小学校などで教職を務めたのち、東京に遊学し卒業後は、兵庫県の中学校で勤務した。大正9年(1920年)には、朝鮮に渡り、釜山の学校で十年余り教育にあたった。信頼が厚かった孫治は、のちに教頭、校長となった。
 帰郷後の昭和13年より8年に新堀村長を務め、戦争によって大きく変動した時代の民生の安定に尽力した。昭和23年(1948年)1月21日に67歳で亡くなった。
菊池数馬きくち かずま 石鳥谷 ”郷土の争いや境界争いに活躍”
 父 正宗の死後、豊臣秀吉の助命により石鳥谷に居住するようになった。新田の開拓や道路・橋の新設、改良などに尽力し、また好地村(石鳥谷町)と隣村の犬渕村(紫波町犬渕)との境界争いに活躍をした。危篤の際には村民に自分の死後も境の鬼となって好地を守るので境に埋めるようにという遺言に基いて長坂に葬られた。万治2年(1659年)9月27日に75歳で亡くなった。昭和初期に墓を掘り返した際、南無阿弥陀仏と書かれた小石が無数に発見されたことから、村人に慕われ死が悔やまれたことがうかがえる。
菊池金六きくち きんろく 石鳥谷  明治44年(1911年)2月6日に好地で生まれる。16歳のときに自宅近くの酒屋で酒造りをスタートさせた金六は、昭和31年(1956年)に杜氏となり、酒の生命である水と米の研究に取り組んだ。また、醸造用米の品質向上にも努め、醸造業界の発展に貢献した。昭和23年には農業調停委員、農業委員等に当選し農業の振興にもあたった。酒造技術者としてだけではなく、部落公民館長、旧石鳥谷農業共同組合監事等も務めた。石鳥谷町立歴史民俗資料館建設の際には資料収集委員長として酒造資料の収集に尽力した。昭和50年に卓越技術者として労働大臣より表彰され、57年には酒造りの功労として勳六等瑞宝章を受章した。平成5年(1933年)7月29日に82歳で亡くなった。
菊池孫兵衛きくち まごべい 石鳥谷 ”学制発布前の寺子屋師匠”
 山屋の出身。慶応二年(1866年)から明治21年(1888年)まで子弟の教育にあたった。地域からも信望を集めていたが、明治39年(1906年)旧暦12月28日に亡くなった。門人や関係者により明治35年12月、山屋に筆塚(教えを受けた門人が師に対して謝恩の意味で建てたもの)が建立された。
岸田柏耆守久邑きしだ ほうきのかみひさゆう 石鳥谷 ”関ヶ原の戦いに敗れ南部藩に預けられた”
 関ヶ原の戦いで、石田三成に味方したことから領地を没収、慶長6年(1601年)南部藩主利直のもとへ預けられた。もと和州郡山(現在の奈良県大和郡山市)城主で、同地で一万石を知行していた。
 流人として南部藩に居住した後の詳細は明らかではないが、石鳥谷町中寺林の光林寺に墓があることから配流先は寺林郷(現在の南・中・北寺林)ではなかったかと考えられる。余生の14・5年を寺林郷で生活し時の光林寺十二世其阿玄通(寛永13年75歳没)に帰依して深交を重ねていたと思われる。
北可継きた かけい 石鳥谷 ”藩内きっての儒学者で、盛岡藩の家老職を務めた”
 北家二代目宜継の長男として生まれ、同家の三代目となったのち盛岡藩の家老として執政に当たった。
 可継は、梅庵と号し多くの儒学者との交際があった。学問が最盛期を迎えていたが反対する人々の動きが強まり、可継も家老職の座を退いた。儒学者の追放及び閉門が解かれたあと、正徳三年(1713年)10月に可継は再び家老職に就いた。
しかし、再び反対派に圧迫され、家老職の座から追放され、関口に蟄居(謹慎)され、享保17年(1732年)2月14日62歳で亡くなった。
北直継きた なおつぐ 石鳥谷 ”八重畑地区の治政にあたった盛岡藩重臣”
 北松斎の三男として生まれ、北家を継承した。直継は天正19年(1591年)の九戸政実の乱や大阪陣、慶長5~6年(1600~1601年)の和賀兵乱に多くの家臣を率いて参陣した。このような功績により慶長8年12月に、稗貫郡関口村、小渕村、滝田村、和賀郡笹間村、飯豊村の五か村に一千石の給地を拝領した。その後、元和4年(1618年)には、従来からの給所のほかに、猪鼻村、八重畑村、九戸郡軽米村、小軽米村等、合わせて一千九百五十石の給所を拝領した。さらに寛永4年(1627年)には、戸塚村を加増された。寛永7年(1630年)10月13日に亡くなった。
桐野宗平きりの そうべい 石鳥谷 ”学制発布前の寺子屋師匠”
 曹洞宗大興寺三十世祖量円宗の二男。新堀橋本の藤原欣也宅の屋敷で岩井垂太と共に子弟の教育にあたる。没年月日は明らかではない。岩井垂太・桐野宗平の両人の筆塚(教えを受けた門人が師に謝恩の意味で建てたもの)が、大正5年(1916年)9月8日、新堀橋本に建立された。
工藤荻蔵くどう おぎぞう 石鳥谷 ”藩制末期の家老家を支えた”
 藩制時代の末期、盛岡南部藩の上席家老であった北家の家臣として藩政に活躍した。文化14年(1817年)に関口で生まれる。南部継昌・南部継序・南部済揖の北家三代に仕え、御裕筆役(物を書く役)や大湯代官等を務めた。南部藩政を動かす程の実力を持っていた荻蔵は、同僚から妬みを受け、安政2年(1855年)には藩の同僚反対派からの工作により失脚した。その後は戸塚村で寺子屋の師匠となり、子どもたちに読書や習字等を教えた。明治13年から17年までは戸長を務めた。明治28年(1895年)9月28日に79歳で亡くなった。