郷土の先人を探す:花巻市の先人や、業績の概要について探します。

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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。

200 件の情報が見つかりました。

氏名 地区 業績
菊池忠太郎きくち ちゅうたろう 東和 ”花巻温泉開設”
 慶応3年(1879年)4月生まれ。成績優秀だった忠太郎は、僅か13歳で土沢小学校の代行職員となる。慶応大学卒業後、花巻に戻り、「河北堂書店」開業。政治にも強い関心を持っており、和賀郡選出県議会議員・稗貫郡選出県会議員となる。
菊池黙堂きくち もくどう 東和  1835年生まれ。東和町東晴山出身。本名は寛信。黙堂ははじめ樗香と号し、花巻出身の橋本雪蕉に絵を学んだ。黙堂の号は雪蕉の号の一つであり、雅号をいただいたほどその画才を高評価されていた。1877年(明治10年)の雪蕉没後、未亡人のますを引き取り実母のごとく尽くしたとされている。1899年(明治32年)愛媛の松山市で病死した。
佐々木俊随ささき しゅんずい 東和 ”軍服校長”
 明治22年(1889年)江刺郡梁川村館下(野手崎)に生まれる。成沢の和尚をしながら、土沢小学校の校長を23年間勤める。終戦後、兵役を勤めた息子の軍服を着ていたことから、「軍服校長」と呼ばれていた。多くの人から慕われていた俊随は成沢寺の山門前に胸像が設置されている。
佐々木門蔵ささき もんぞう 東和  明治12年(1879年)中内に生まれる。明治28年、海軍に入隊。軍楽兵として活躍。その後、中内で中内尋常小学校に勤め、以後浮田尋常小学校等に勤める。大正7年(1918年)、村議会委員となると道路の改良に努め、県南バスの定期路線バスを開通させる。中内村に尽くす一方で、神官としての顔も持っていた。
清水弥四郎しみず やしろう 東和 ”岩手の俳句会を再興した”
 明治27年(1894年)4月土沢町に生まれる。郵便局の電信士として勤めるが、病により退職。俳句の号は「清水 不棲魚」。岩手の俳句界を再興するため、俳句会を結成。土沢にも俳句の会「蕪吟社(かぶらぎんしゃ)」を創設。昭和5年、花巻温泉が日本新名所「日本新八景」に選奨された際、花巻温泉を旬題として募集した際、弥太郎が応募した「おのづから なる山萩や でゆの庭」が最高位となった。「干繭に 足吊られいぬ 秋の蠅」と刻まれた句碑が浄珠院に残されている。
菅木友次郎すがき ともじろう 東和 ”成島和紙再興”
 明治13年(1880年)、成島和紙を生産する家に生まれる。生産量の減っていく成島和紙を再興する為、大正3年(1914年)製紙工場を建て東北一の製紙工場とし、地域の活性化にも大きく貢献した。北成島に謝恩記念碑が建てられている。
菅谷忠兵衛すがや ちゅうべい 東和 文政10年(1827年)田瀬に生まれる。
 忠兵衛は田瀬の戸長となると、明治11年(1878年)自分の土地を提供し田瀬小学校を建てた。その後、明治44年(1911年)に高等科も併置される。忠兵衛は明治12年(1879年)に学務委員になり、地域の教育に貢献した。 明治2年(1869年)花巻県庁に漁の許可を請願し、それ以後猿ヶ石川のところどころに簗場が仕掛けられるようになった。簗場にて多くの地元民が働くようになり、地域経済を潤していった。ここでとれた鮎は、鼻曲がり鮎と呼ばれ南部盛岡薄の産物とし生江が上げられていた。この鮎の粕漬が明治30年(1897年)に神戸で開かれた第2回水産博覧会で、褒章を受章した。また明治42年(1909年)の際にも献上された。
 大正3年(1914年)85歳で亡くなり、田瀬に葬られている。
菅谷雄二狼すがや ゆうじろう 東和 ”谷内村に五つの小学校”
 元治元年(1864年)生まれ。本名 菅谷 雄次郎。祖父・父と続いている名前の「雄」を引き継ぎ、雄二狼と改名。幼少の時から成績優秀だった雄二狼は、僅か12歳で田瀬小学校の助手になる。27歳で蘭葸尋常小学校校長に就任し18年間務めた後、田瀬尋常小学校校長となる。退職後、人々から厚い信望を受けていた雄二狼は、田瀬地区・谷内地区の村長として抜擢され、谷内村に五つの小学校を創設する。一般的に普及していなかった電気を引く為、発電所をつくる運動をおこし、建設にこぎつけた。
高橋伊勢次郎たかはし いせじろう 東和  明治14年(1881年)土沢に生まれる。
 農商務省東京蚕業講習所本科卒業後、農林省の蚕業試験場などに勤め、養蚕業の指導に貢献した。蚕業、蚕糸業に尽くした功績によって功労章、瑞宝章を受章している。昭和21年(1946年)に農林省を退職して土沢に帰り、以後は郷土史研究に専念した。その功績に対して東和町長から文化功労者として表彰されている。
 昭和35年(1960年)79歳で亡くなっている。
千田稲城ちだ いなき 東和  明治13年(1880年)毒沢に生まれる。
 明治38年(1905年)稲城の提唱で毒沢信用組合が作られた。その後中内村信用
購販利用組合に発展し、さらに中内村農業会に改編された。この間45年間組合
長・会長を務めている。大正5年(1916年)からは中内村長を5期務めている。この間村の三大幹線道路を完成させている。これには青木重之助の力もあった。昭和8年(1933年)に当時の県知事石黒英彦に頼まれ、県信用組合連合会の専務理事を8年間務めている。県購買連合会監事、県医薬連合会理事なども務め、これらの功績によって岩手県知事表彰、岩手県農業会表彰、産業組合中央会表彰などを受けた。 昭和24年(1949年)地域の農業会関係者によって毒沢公民舘前に顕彰碑が建てられる。 昭和25年(1950年)70歳で亡くなり、毒沢宿館公葬地に葬られている。
千田材美ちだ もとみ 東和  明治32年(1899年)花巻市狼沢に生まれ後に毒沢の千田稲城の養子に迎えられる。
 昭和22年(1947年)に教育制度が改正され、材美は新制土沢中学校長になった。
 当時高等学校がなかったため、町長・県会議員らと共に、県教育委員会に再三陳情し、昭和24年(1949年)土沢高等学校設立にこぎつけた。材美は校長となり、以後8年在職し土沢高等学校の基礎を築き上げた。
 昭和63年(1988年)89歳で亡くなり、毒沢宿館公葬地に葬られている。
長原一郎ながはら いちろう 東和  明治25年(1892年)東晴山に生まれる。
 遠野中学校在学中に遠野キリスト教会でタッピング宣教師から洗礼を受ける。以後、地域におる初めてのキリスト教信者としてその布教と慈善活動を行った。昭和30年(1955年)私財を投じ土沢教会堂を建立し、日曜学校を開いて、地域の子供達を育てた。
 20代の頃は萬鉄五郎に師事して絵を描き続け、後年聖書教会発行の絵葉書に作品が採用されている。哲学者である波多野精一博士の勧めで、英語の聖書だけでなく、ギリシャ語の聖書の解読にも没頭する。神に一生を捧げ、平成3年(1991年)99歳で亡くなった。
人首昌二郎ひとかべ しょうじろう 東和  文化4年(1807年)土沢に生まれる。
 人首氏は土沢城主江刺氏の重臣の家柄で、昌二郎は19歳の時江戸に出て、学問を学ぶ。また宝生流の謡いと能楽も学び、当時の能楽の第一人者宝生流十五代弥五郎に奥傳を許される。江戸より帰郷後は、南部盛岡藩のお抱え能楽師として、第十三代藩主南部利済公から十五代利剛公まで仕える。その時「土沢潔巳」の号を与えられる。南部盛岡藩では安政年間(1854年~1859年)に勘定奉行となり藩の財政立て直しに力を尽くした。
 また俳句を梅之本二世為山に学び、梅之本三世沙山を名乗ることを許される。多くの弟子を育て、東和町にも多くの弟子がいた。 明治18年(1885年)78歳で亡くなり、盛岡市祇陀寺に葬られる。「粟の葉とともにこぼるる 時雨哉」の辞世の句碑が建てられている。
平野嘉八郎ひらの かはちろう 東和  弘化元年(1844年)宮田村に生まれる。
 更木村の石橋渡理手習所で数年間勉強した後、自宅で「宮田手習塾」を開き、村の若者達に勉強の大切さを説いた。明治6年(1873年)学校教育制度が作られ、「宮田手習塾」は宮田53番小学模になり、翌年浮田尋常小学校が設置された。
 明治13年(1880年)浮田村の戸長を務め、明治22年(1889年)中内村が発足すると初代村長に任命された。村長としての3年間は成島和紙の振興と販路の拡大、畜産の振興に力を入れた。明治39年(1906年)62歳のとき急病で亡くなり、石持に葬られた。
船越元孝ふなこし げんろう 東和 ”達磨和尚霊戒”
 明治8年(1875年)6月1日、宮古市金浜生まれ。本名 船越元孝。「霊戒」は画号であるが、こちらのほうが知れ渡っている。小学時代から絵がうまく、水墨画を得意とした。明治27年(1897年)東和町安俵 凌雲寺、二十一世住職となる。火事で本堂を全焼したお寺の再建の為、達磨絵を書き即売会を行い資金集めに励む。力強く、豪快な達磨絵は高く評価され、全国的に「達磨の霊戒」として有名になった。凌雲寺の再建は叶えられなかったが、昭和50年に弟子によって再建された。
松原緑まつばら みどり 東和 ”東和町初代町長”
 明治43年(1910年)5月和賀郡十二鏑村東晴山生まれ。昭和30年(1955年)1月1日、土沢町・小山田村・中内村・谷内村合併で誕生した「東和町」の初代町長。東和町を農業の町として発展させる為、猿ヶ石川土地改良区を作り、現在でも東和町の農業を支えている。
宮川潜蔵みやかわ せんぞう 東和  明治3年(1870年)中内村に生まれる。
 明治24年(1891年)宮城農学校を卒業すると農商務省蚕業伝習科に入り、養蚕について専門知識を習得した。明治36年(1903)郡立加美蚕業学校の二代目校長に就任する。潜蔵は養蚕を実際に家庭で行うには女性の力が大きいと考え、明治45年(1912)から女子部も併設した。当時男女共学の実業学校は珍しく、全国から視察団が来校した。養蚕の実態に合わせた開設は女子の進学率を高めただけでなく、地方の蚕業発展に大きく寄与し、校長の英断であると高く評価された。昭和7年(1932)南成島に帰った。
 大正10年(1921)に同窓生の手によって頒徳碑が現在のカ口実農業高等学校の東南偶に建てられている。昭和34年(1959)89歳で亡くなっている。
横川省三よこかわ しょうぞう 東和 ”自由民権運動家”
 生年: 慶応1.4.4 (1865.4.28)
 没年: 明治37.4.21 (1904年)
 明治時代の新聞記者、日露戦争時の特殊任務従事者。盛岡藩士三田村勝衛の3男。横川家の養子となる。熱心なキリスト教徒。明治17(1884年)年上京して有一館に入門したが加波山事件関係者をかくまい2年間入牢。出獄後、自由民権派の三大事件建白運動に参加。23年『東京朝日新聞』の記者となり、郡司成忠大尉の千島探検に同行し、「短艇遠征記」などの記事を書いた。29年退社。34年内田康哉公使に従って中国に渡った。37年日露の国交が断絶すると特別任務班に志願、沖禎介らと東清鉄道フラルギー駅付近の鉄橋爆破を企図したがロシア軍に発見されて捕らえられ、ハルビン郊外で沖と共に銃殺された。戦後勲五等を授けられ、40年靖国神社に合祀された。
萬鉄五郎よろず てつごろう 東和  明治18年(1885年)11月17日、花巻市東和町土沢に生まれた。幼少期より水墨画を、また16歳の時に大下藤次郎の手引書により水彩画を独学で始めた。明治36年(1903年)萬は上京し、明治40年(1907年)、東京美術学校の卒業制作の「裸体美人」(国重要文化財)でデビューした。画家のグループ「フューザン会」に加わり、フランスのフォーブ風の強烈な色彩と大胆な筆触による自身の近代的な画風を展開させた。
 大正3年(1914年)(29歳)、絵画制作に専念するため故郷の土沢に帰り、新しい方向へと進んだ。郷里土沢という、美術動向とは無縁の地で隔絶した状況に身を置き、キュビスム的に実験を試みる。この集中的な実験の時代の後、萬は再び上京、大正6年(1917年)からは「日本美術協会」展に土沢で制作した作品を、また二科会展には萬の主要なキュビスムの仕事である「もたれて立つ人」を出品した。
 萬は神経症から大正8年(1919年)、神奈川県茅ヶ崎に転居した。まもなく画風が変化し始め、油彩画のほかに南画(水墨画)を描き、伝統美術の解釈は彼の洋画にも反映した。
彼の短い生涯の間に、西洋の新しい美術運動、後期印象派、フォービスム、キュビスムが日本に紹介され、若い画家たちに影響を与えた。彼はそれを模倣することには満足せず、それを吸収し、彼の内面を具現した自身の絵画を確立した。
亀ケ森図書・玄蕃 大迫 ○戦国の世を渡った中世豪族 亀ケ森図書・玄蕃
 中世豪族・亀ケ森氏の名は、「瀬川稗貫氏系図」に登場する。その系図には、稗貫氏の始祖である稗貫大和守広重の二男亀ケ森能登守為長が亀ケ森氏の祖となっている。
 亀ケ森地区の伝説では、分亀3年(1503年)稗貫氏家臣の八木沢外記なる人物が亀ケ森八幡館に居を移したが、天文9年(1540年)に没落。その後、同じ稗貫氏家臣の亀ケ森図書が代わって亀ケ森一帯を治めたとされている。
 弘治3年(1557年)には、主家稗貫氏に反抗した亀ケ森図書光廣が城に立て籠もり、矢沢左近・槻木下野守らが率いる稗貫勢を迎え撃って、槻木氏を討ち取ったとされている。
 亀ケ森氏最後の領主となった亀ケ森玄蕃家衡の代には市場を開設するなど町場づくりに尽力し、強大な勢力を誇った。
 威勢を誇った亀ケ森氏も、天正18年(1590)主家の稗貫氏とともに没落する。その原因は、豊臣秀吉の小田原城参陣の呼びかけに稗貫氏が兵を派遣しなかったことにあった。これにより、稗貫氏は領地を没収されたが、亀ケ森領主・玄蕃らは自らの領地にとどまり、稗貫氏再興のために奔走した。そして、同じ稗貫一族の大迫氏が新領主となった南部氏に逆らって徹底抗戦するのに対し、玄蕃は南部氏に忠誠を誓い、亀ケ森700石を安堵される。
 ところが、関ヶ原合戦翌年の慶長6年(1601)、南部氏に反抗して閉伊に逃げる旧志和領主の斬波孫三郎を取り逃がし、斬波氏に加担したとみなされて所領を没収された。
その後玄蕃は、花巻に隠れていましたが、花巻城代となった北松斎に召し出されて家臣となり、旧領地の亀ケ森に100石を賜ったと言われている。