郷土の先人を探す:花巻市の先人や、業績の概要について探します。

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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。

200 件の情報が見つかりました。

氏名 地区 業績
柳原昌悦やなぎわら しょうえつ 石鳥谷 ”宮沢賢治の教え子で自らも教育に尽くした”
 明治42年(1909年)8月10日、八幡の江曽で生まれる。八幡尋常小学校、県立花巻農学校、岩手師範学校を卒業後、教職にあたった。花巻農学校時代に賢治から一年程度の教えを受け、卒業後も親交を深めていった。賢治の妹トシの亡き後、トシが使用していたバイオリンが昌悦に贈られた。宮沢賢治が最後に柳原昌悦に宛てた手紙には助言が残されている。平成元年(1989年)2月12日、80歳で亡くなった。賢治からの手紙やバイオリンは、現在宮沢賢治記念館に寄贈されている。
谷村貞治やむら ていじ 石鳥谷 ”谷村学院を創設「漢字テレプリンター」を開発し、「みちのくの電信王」と呼ばれる”
明治29年(1896年)3月19日、新堀の上郷で生まれる。中央逓信局電信で電信工夫として勤めながら、電気学校(現東京電気大学)夜間部と英語学校に入学し、勉強に励んだ。大正13年に英国資本のサミュエル商会から招聘を受け、電信機の開発にあたった。やがて仮名文字式電信機を開発した。昭和12年(1937年)6月に独立し東京浦田に新興製作所を創設したが、20年の東京大空襲で工場が焼失した際に花巻に本拠を移した。昭和30年、漢字や記号を含めた文字の送受信・即印字を可能にした、「谷村式テレプリンター」を完成させた。実業家としてだけではなく、衆議院議員、自民党連合会長、県政顧問、県総合開発審議委員、みちのくコカコーラボトリングなどの要職を歴任したほか、新堀公民館や石鳥谷公民館(元商工会館)、花巻公民館などの建設、人材育成、文化事業にも多く私財を投じた。昭和43年(1968年)4月20日、72歳で亡くなった。
湯川家三代ゆかわけ さんだい 石鳥谷 ”狩野派に学んだ盛岡藩絵師”
湯川玉流とその子の玉泉、孫の玉僊で、三人とも盛岡藩の絵師として活躍した。
 玉流…徳川幕府のお抱え絵師。狩野春信に絵を学び、特に人物画を得意とした。盛岡藩内のお抱え絵師の中でも郡を抜いていたと言われている。盛岡市永泉寺の「出山釈迦図」や同天満宮の「能図額」、同千手院の「愛染明王像」などの作品がある。文化五年(1808年)10月18日に亡くなった。
 玉泉…安永5年(1776年)生まれ。父 玉流の門下であったが、事績は残されていない。文化13年(1816年)2月23日に41歳で亡くなった。
 玉僊…文化9年(1812年)8月15日生まれ。「鷹図」の画題を得意とし、盛岡市法華寺などのほか、石鳥谷町内の寺院や個人宅に見られる。画家としてだけではなく教育の面にも尽力し、明治4年(1871年)から約一年間、八幡・好地・新堀・石鳥谷の四ヵ村を管轄する郡長を務め、以後は寺子屋の師匠として教育にあたった。七十余歳で亡くなった。
渡辺弥右衛門わたなべ やえもん 石鳥谷 ”農業の振興や町政に貢献した”
 明治29年(1896年)7月16日に大興寺に生まれる。昭和6年(1931年)に産業組合運動に参画し、のちに組合の理事を務める。昭和22年に農業共同組合設立発起人となり、翌年には石鳥谷町農業協同組合発足に伴い理事となり23年余り組合長を務め、組合の基盤作りに努めた。昭和12年より石鳥谷町議会議員となり、のちに議長に就任した。このほかにも町警防団長や町教育委員、花巻地方農業共同組合長、山王海土地改良区理事、森林組合理事などを歴任した。昭和49年には農業の振興の尽力した功績により、全国農業中央会より表彰を受け、49年には勳五等瑞宝章が授与された。昭和50年(1975年)8月15日に79歳で亡くなった。
青木重乃助あおき じゅうのすけ 東和 ”中内村の名眼科医”
 明治6年(1763年)中内村南成島生まれ。眼科医としての知識を身につけ、腕を磨いた青木は軍隊に入隊後、軍医として負傷した兵隊達の診療治療にあたった。除隊後は、山形県山形市で眼科治療院を開設。大正3年(1914年)成島に帰った後、眼科診療所を開業。開業翌年の大正6年4月中内村の議会議員として18年間務め、村民と共に村道、梁欠道路、花巻道路を費用を負担し造り上げた。村の発展に率先して取り組み、中内村を模範的な村とした重乃助は、数々の勲章や功労賞を受賞している。
青木平八あおき へいはち 東和 ”トラコーマをなくした”
 明治39年(1906年)6月、六原村(現金ヶ崎町)に生まれる。小学5年生の時に南成島の眼科の名医 青木重之助の元へ養子となる。当時、伝染病であったトラコーマの研究に勤しむ。トラコーマ治療研究の名医となり、全国眼科名医トップとして名を上げた。
伊藤敦子いとう あつこ 東和 “世界のプリマドンナ”
 明治35年(1902年)1月15日生まれ。小山田尋常小学校卒業後、盛岡高等女学校(現盛岡二高)で才能が認められ、音楽の道へ進む事を決意する。プリマドンナとして「蝶々婦人」をヨーロッパ各地で600回以上公演した。
薄衣八百蔵うすぎ やおぞう 東和 ”昭和の宮大工の名人”
 明治27年(1894年)町井の大工の家に生まれる。達磨和尚が再建を試みた凌雲寺本堂の設計をし、指導をした宮大工。建築大工として数々の感謝状・表彰状を受賞している。昭和45年には名工「職の匠」として労働大臣から認定された。
及川古志郎おいかわ こしろう 東和 ”海軍大将”
 明治16年2月8日生まれ。第一航空戦隊司令官、支那方面艦隊司令長官などをへて、昭和15年第2次近衛内閣の海相となり、三国同盟締結に同意。19年軍令部総長としてマリアナ沖海戦、レイテ島海戦などを指揮した。海軍大将。昭和33年5月9日死去。75歳。岩手県出身。海軍大学校卒。
及川全三おいかわ ぜんぞう 東和 ”ホームスパン”
 明治25年(1892年)11月、和賀郡土沢町安俵に生まれる。盛岡市の城南尋常小学校の先生を勤めた後、東京で教員として勤める。その時の下宿先でホームスパンに出会う。民芸研究家であり、哲学者である柳宗悦と出会う。昭和46年(1971年)「和紙及び染色技術において中小企業功労者」として黄綬褒章、昭和51年「中小企業振興功労」により勲五等瑞宝章を受章。
及川長平おいかわ ちょうへい 東和 ”土沢郵便局開設者”
 安政元年(1854年)土沢生まれ。明治7年(1874年)土沢町に駅逓局(今の郵便局)を創設。教育の場が十分でなかったため、独立した小学校の設立の運動を起こし、明治18年(1885年)「鏑小学校」が設立された。政治に強い関心を持ち、明治12年村会議員、郡会議員に当選。その後、岩手県地方評議委員、県会議員を務める。また「玄々堂」と号して詩・和歌・俳句に力を入れた文化人でもあった。
小川仁一おがわ じんいち 東和 1918-2002 昭和後期-平成時代の労働運動家、政治家。
 大正7年2月1日生まれ。戦後、教員組合運動に参加し昭和34年岩手県教組委員長となる。日教組副委員長、総評副議長をへて51年衆議院議員(当選2回、社会党)。62年参議院議員(当選2回)。平成14年11月24日死去。84歳。岩手県出身。岩手師範卒。
小田島孤舟おだしま こしゅう 東和 ”岩手歌壇の育成者”
 明治17年3月1日生まれ。石川啄木と交遊があり、明治41年岩手新詩社をおこす。翌年「曠野(こうや)」を創刊、中央文壇と交流をもつ。のち「ぬはり」同人。盛岡高女などの教師をつとめた。昭和30年12月4日死去。71歳。岩手県出身。岩手師範卒。旧姓は佐々木。本名は理平治。歌集に「郊外の丘」など。
小原吾一おばら ごいち 東和  明治35年(1902年)落合に生まれる。昭和22年(1947年)から中内村長となった。村に診療所を開設し、土沢~北上間に定期バスを走らせ、村民の足の確保に努めた。昭和の大合併では土沢町長の松原緑と力を合わせ、東和町の礎を築いた。昭和26年(1951年)に中内村農業協同組合長に就任。成乳牛の導入、しょうゆ味噌の製造、たばこ・リンゴの栽培、わいかリンゴの導入等。昭和40年(1965年)に土沢・小山田・中内・谷内の4つの農協合併という大事業を成し遂げ、初代組合長となった。
小原忠秀おばら ただひで 東和  天文9年(1540年)安俵城に生まれる。
 安俵郷・十二鏑村・中内村・谷内村・倉沢村・田瀬村の領主で、和賀氏の重臣。領主としては天正18年(1590年)晴山の稚内川から安俵に至る鏑用水を完成させている。
 奥州仕置の後、和賀・稗貫一揆が起こり、一揆軍が敗れ主君の和賀義忠が仙北に落ち延びる途中に亡くなってしまう。和賀氏再興のため忠秀は義忠の遺児である次男の又四郎を新しい主君として仕え、又四郎が成人して忠親となってからもよく支えたが、慶長6年(1601年)岩崎城は落城。
 岩崎城が落城後は伊達政宗を頼るが、同年伊達家に徳川家康の咎目めが及ばぬよう、忠親を初め7人の家臣と共に宮城国分ケ原で自刃する。仙台市の国分尼寺に葬られている。61歳であった。
小原樗山おばら ちょざん 東和 ”大正の名宮大工”
 文久2年(1862年)生まれ。宮大工。遠野市、十一面観音像がある福泉寺を造った棟梁。本名 小原喜代治。「樗山」は、彫刻の基礎となる絵の修行をした際の師匠、菊池黙堂から与えられたものである。花巻市金矢の松山寺の本堂、石鳥谷町新堀の不動明王の彫刻他、地元東和町をはじめ岩手、秋田、宮城でもお寺や神社を建てている。青森県三本木の正法寺本堂は小原樗山の名声を上げた名建築。樗山の功績を讃え、達磨和尚こと凌雲寺住職船越霊戒が碑文を書いた碑が建てられている。
小原通勝おばら つうしょう 東和  明治7年(1874年)土沢生まれ。岩手県高騰師範学校専科を卒業。教職につき、東晴山尋常小学校の校長を務めた。大正3年退職。その後、十二鏑村信用購買販売利用組合長、土沢国民学校後援会長、人事調停委員、下町区長を歴任した。一方、宮沢賢治と同じく日蓮宗を信仰し、国柱会で布教活動をした。宮沢賢治が午前3時に起き、下駄履きで小原宅を尋ねたこともあったという。大正15年(1926年)安俵の善立寺の副住職を務め、昭和6年(1931年)善立寺を増改築し、久遠山実成寺の寺号を受け、その住職となった。
小原哲二郎おばら てつじろう 東和  明治40年(1907年)中内村で生まれる。昭和13年(1938年)東京農業教育専門学校助教授になり、稗の研究に取り組む。雑穀の研究と開発利用の功績に昭和19年(1944年)内閣技術院賞と東京帝国大学より農学博士の学位を授かった。戦後、東京教育大学教授となり、パン業界や果糖業界の指導などで大きな功績を立てた。国際的にも活動し、昭和29年(1954年)ドイツ・ゲッチンゲン大学・マックスプラング研究所客員教授として食品化学の指導を行っている。昭和40年(1965年)ハブコック・ハート賞を贈られている。
菅野常次郎かんの つねじろう 東和 ”倉沢人形歌舞伎”
 明治11年(1878年)生まれ。人形芝居と歌舞伎を一緒に演ずる倉沢人形芝居を立ち上げる。本業は彫刻師、副業は芝居。彫刻は「昭和の名工」といってもいいほどで、県内外に仏像が残されている。昭和30年(1956年)に「倉沢人形芝居」から「倉沢人形歌舞伎」と名称を変え、昭和34年(1959年)東和町無形文化財第一号として指定、平成7年(1995年)岩手県指定無形民俗文化財になっている。
菊池素香(文次郎)きくち そこう (きくち ぶんじろう) 東和  菊池素香は嘉永5年(1852年)に土沢町(現・東和町土沢)の農家(屋号「川端」)で生まれた。本名を「文次郎」、字(あざな)を「遠嗣(えんし)」といい、「素香、桑園(そうえん)、雪(せつ)翁(おう)」と号している。
 素香は地元の画家、菊池黙堂(もくどう)に南画(文人画)を学び、その後、黙堂の師であった橋本雪蕉(せっしょう)のもとに通い学んでいる。
 明治17年(1884年)、「第2回内国絵画共進会」に入選。明治25年(1892年)には、「東京勧業博覧会」で「三聖人之図」が入賞したといわれている。
 素香から絵を学んだと伝えられているのが、船越霊戒と萬鉄五郎である。霊戒は達磨絵で知られ、「霊戒達磨」として県内に広く頒布されている。萬鉄五郎は、日本近代洋画の先駆者として、美術界に確たる地位を築き、今なお大きな影響を及ぼしている。
 素香と萬を関連付ける資料は明らかではないが、素香自ら「萬に絵を教えた」と語っていたと伝えられている。このことは素香が萬家に出入していたこと、素香の息子と萬が幼なじみであり、互いの家で遊んでいたこと、萬が洋画を学ぶ以前に、水墨画を独学していたことなどを考え合わせれば、萬が素香から手ほどきを受けたことは事実とも考えらる。
 絵画のほか、桑の葉の品種改良にも熱心に取り組む一方、琵琶、尺八、能を趣味とする風流人でもあった素香。昭和10年(1935年)、84歳でその生涯を閉じている。