郷土の先人を探す:花巻市の先人や、業績の概要について探します。

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「郷土の先人には、どんな方がいるんだろう」「先人が残した業績の概要について知りたい」という場合は、このコーナーをご覧ください。
花巻市の先人の業績の概要について紹介しています。

200 件の情報が見つかりました。

氏名 地区 業績
高橋清一たかはし せいいち 石鳥谷 ”教育の振興や町史の編纂に尽力”
 明治34年(1901年)3月30日に北寺林で生まれた。幼少期から優秀であった清一は県立農学校(現盛岡農業学校)を卒業後、教員生活をスタートさせた。八幡国民学校兼同青年学校長、八幡小学校長兼同中学校長、青年学校長、八重畑小学校長兼同中学校長となり、昭和28年3月に退職をした。退職後は、旧石鳥谷町教育長となったほか、保護司や人権擁護委員を務めた。更には石鳥谷町文化財調査委員長や石鳥谷町史編纂委員長なども務め町史の編纂、南部杜氏史の編纂にも尽力した。昭和47年に教育功労者として勲五等双旭日章を授与された。昭和60年(1985年)1月18日、85歳で亡くなった。
高橋甚一郎たかはし ぜんいちろう 石鳥谷 ”酒造り一筋に生きた名杜氏”
 明治32年(1899年)5月9日、新堀で生まれる。18歳の時から酒造りをスタートさせた。大正7年(1918年)に好地の照源酒造店(株式会社宝峰)に勤めたのち、東北地方酒造発展における酒造指導者花岡正庸に推薦され、秋田県三浦酒造店に杜氏として入社した。昭和4年に仙台市の鳳山酒造店に入社後、銘酒「鳳山」の醸造と後輩の育成指導にあたった。この間には南部杜氏協会新堀支部長を務めたほか、同協会理事、同協会副会長を歴任した。
 また、宮城県酒造杜氏組合副会長や同会長も務めた。東北及び全国の清酒品評会で多くの賞を受賞した。昭和44年には、南部杜氏最高の栄誉賞である黄緩褒章を受賞した。昭和50年(1975年)12月20日に77歳で亡くなった。
谷村久太郎たにむら きゅうたろう 石鳥谷 ”政治家としても活躍した杜氏”
 明治26年(1893年)5月25日に新堀で生まれる。好地の横沢酒造店で酛師として勤めたのちに同店で杜氏として勤務する。酒の醸造に力を注いだ久太郎は、岩手県清酒品評会で上位入選、全国の清酒品評会でも優等賞や名誉賞を受賞した。
 大正3年(1914年)には同郷の佐々木伊四郎らと共に南部杜氏組合を結成し、初代新堀支部長となり、のちに理事、理事長の要職を務めた。また、南部杜氏組合創設十周年を記念し機関紙の発行を行っている。昭和4年(1929年)には新堀村議会議員に当選し、好地に職業安定所を設置した。また、新堀信用購買販売利用組合専務理事も努め、土地改良事業などにも力を注いだ。昭和29年には新堀村長に就任し新生石鳥谷町の合併に尽力し、昭和40年(1965年)6月27日に73歳で亡くなった。
玉山キヨミたまやま きよみ 石鳥谷 ”婦人運動の推進に尽力した”
 明治37年(1904年)2月28日紫波町下越田に生まれる。17歳の時に八幡で雑貨商や製粉、製麺業を営む家に嫁ぎ、家業に励む傍ら八幡婦人会に入会し昭和30年(1955年)に会長となった。昭和46年までの16年間、会長として女性の自主性の確立や教養の向上に努めた。この他、石鳥谷町連合婦人会長や稗貫郡婦人連絡協議会長、八幡農協婦人会部長など婦人運動の第一線に立ち力を注いだ。女性から息切れや目まいなどの訴えがあった際には、調査の実施を働きかけ、健康管理に関する講演会を開催した結果、地区民の健康管理が見違えるように良くなったといわれている。平成3年(1991年)11月12日に87歳で亡くなった。
玉山倉吉たまやま くらきち 石鳥谷 ”八幡の教育に情熱を傾けた”
 明治15年(1882年)1月12日に八幡で生まれる。岩手師範学校を卒業後、教職につき、花巻市川口、石鳥谷町好地に勤務、八幡小学校では27年5ヶ月校長として教職に就いた。自らの教育理念と教育にかける情熱を持って児童に接し、その教育指導は多くの人に認められ他の模範とされた。昭和11年、県教育会長より表彰を受けた。翌年には、勲五等瑞宝章を受章している。県立六原青年道場清明会稗貫郡八幡村支部相談役として、農村開拓青年の指導にもあたった。昭和14年に退職後、司法保護委員として青少年非行化防止にあたったほか、八幡神社や貴船神社の宮司を務めた。昭和20年には八幡村長に就任し財政の建て直しに尽力した。昭和27年(1952年)10月25日に70歳で亡くなった。
 阿部伊佐吉とともに八幡小学校の校門の傍に彰徳碑が建てられている。
玉山景三たまやま けいぞう 石鳥谷 ”戦時中の町政に力を尽くした”
 明治13年(1880年)9月6日に好地で生まれる。父は石鳥谷郵便局の開局をした人。好地尋常小学校から日詰の紫波小学校高等科を卒業後、石鳥谷郵便局に入局し、明治38年に25歳で局長となった。局長在職中、町政再建のための人材として町長就任に再三にわたり推され、昭和17年(1942年)郵便局長を辞し、石鳥谷町長となった。戦時中の混乱の中でも町政の立て直しのために全力を注いだ。昭和24年(1949年)3月3日、69歳で亡くなった。
玉山忠兵衛たまやま ちゅうべい 石鳥谷 ”八幡の農業振興に尽力した”
 明治4年(1871年)10月10日に八幡村に生まれる。農家に生まれた忠兵衛は、農業の改善に力を注ぎ、馬をつかった水田の耕地を奨励した。北上川堤防の構築にも力を入れ、父の玉山忠蔵らが構築した堤防を更に延長し、水害からの被害を少なくした。八幡村の初代農会長や村議会議員、八幡東区区長などを務めたほか、町道井戸向線の改良工事などを行い、昭和20年(1945年)2月9日に74歳で亡くなった。
 八幡の八幡宮境内には大正12年5月18日に馬耕開始30年を記念して石碑が建立されているが、その中に忠兵衛の名が刻まれている。
継枝弥平太つぐえだ やへいた 石鳥谷 ”石鳥谷りんご栽培の先駆者”
 明治17年(1884年)5月1日、農業を営む家の長男として滝田で生まれた。若い頃から家業を手伝っていたが、石鳥谷町で本格的なりんご栽培を行ったとみられる関口の佐藤澄志、谷藤惣右衛門らから影響を受け、りんご栽培を目指すようになった。自分一人で利益を得ようとせず、みんなで協力して利益を得ようとした弥平太は、青森でりんごの栽培の技術を学んでは地域の人たちに伝えた。市場で滝田りんごの名声が高まった中、昭和34年4月3日に76歳で亡くなった。弥平太の功績を讃え、昭和38年4月12日に北滝田に顕彰碑が建立された。
辻村氏つじむらし 石鳥谷 ”盛岡藩お抱え鉄砲師”
 辻村家は江戸時代に盛岡藩の鉄砲師(鉄砲鍛治)を務めていた。鉄砲の製造は3つに分かれており、鉄砲の銃身を制作する職人を鉄砲師と呼んだ。辻村家の鉄砲の製造は幕末まで続いた。大瀬川で鉄砲の製造にあたったとみられ、自宅や旧屋敷跡からは、鉄砲製造の際に出る鉄の屑や鉄砲の型が出ている。
照井堯造てるい ぎょうぞう 石鳥谷 ”発酵工学の先駆者”
 明治42年(1909年)3月28日、紫波町上平沢に生まれる。6歳の時に好地で酒造業を営んでいた家に養子となり、石鳥谷町に居住した。大阪帝国大学工学部醸造学科を卒業後、同大学副手として勤務したのちに、助教授を経て工学博士号を取得、教授となった。以後、40年にわたり醗酵工学の指導育成にあたった。バイオテクノロジー研究の第一人者としても国際的に活躍した。国際連合関係機関においては、副議長や委員長を勤め、精力的に活動した。昭和37年から日本醗酵工学会初代会長に就任したほか、自ら醗酵工学雑誌を発刊した。昭和45年にはサントリー株式会社より記念館の寄贈を受けた。46年には大阪大学名誉教授に任ぜられた。 堯造の数々の業績は世界でも高い評価を受け、昭和52年には科学アカデミー名誉議長の称号を受けた。昭和61年(1986年)5月28日、77歳で亡くなった。
照井源蔵てるい げんぞう 石鳥谷 ”「宝峰」の創業者”
 安政5年(1858年)2月14日、好地で生まれた。農業の傍ら冬期は酒造店の出稼ぎに出ていた。酒造技術者として酒造の研究に精力的に取り組んだ。花巻の萬屋酒造店に勤めた後は、水沢や盛岡、北上などの酒造店で杜氏として働いた。明治44年に養子の源之丞とともに好地で照源酒造店を創業したのち、好地の川村○右衛門を迎え酒造にあたり、東北六県清酒品評会で一等を受賞し、全国の清酒品評会でも上位入賞した。以後の業績は順調に伸び、県内では盛岡の岩手川に次ぐ酒造石数を誇った。昭和17年(1942年)3月20日に85歳で亡くなった。
照井源之丞てるい げんのじょう 石鳥谷 ”県酒造業界の発展に尽力した”
 明治8年(1875年)11月21日、紫波町赤石で名杜氏と知られた藤沼市五郎の二男として生まれた。19歳から酒造りをスタートさせ、明治44年8月、養父照井源蔵と共に照源酒造店(のちの宝峰酒造店)を創業し、銘柄「寶峰」(宝峰)の醸造にあたり、日本酒の産地として石鳥谷の名を高めた。岩手県酒造組合長や岩手県酒造組合連合会の初代組合長を歴任し、昭和11年11月には岩手県酒造組合連合会により功績を称えた胸像が建てられた。この胸像は現在花巻市石鳥谷歴史民俗資料館敷地内に移設になっている。酒造業界だけでなく、旧石鳥谷町議会議員や消防組頭等の要職も歴任し、町政にも寄与した。昭和18年(1943年)7月17日に69歳で亡くなった。
照井庸三てるい ようぞう 石鳥谷 ”明治初期の行政に貢献した”
 天保元年(1830年)3月14日、南岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる。地方行政の要職にあたったのち、第八大区五ヵ村(八幡・中寺林・好地・北寺林・大瀬川)の戸長(村長)に就任した。戸長に就任すると、出水による耕地の被害が大きかった葛丸川の治水工事を行ったり、葛丸川筋一帯に数千本の桑の木を植え養蚕の振興を図るなど、地域の振興に大きく貢献した。明治十二年には稗貫郡長となり、翌年には紫波郡長、県会議員に当選した。明治15年(1882年)職を辞した後、地方の開発のためには青年にあるとして青年の教育指導にあたった。明治26年(1893年)6月14日、64歳で亡くなった。
照井米三てるい よねぞう 石鳥谷 ”醸造技術の向上に尽力した”
 明治27年(1894年)12月10日に好地で生まれる。宮城県の酒造店で酒造りをスタートさせ、水沢・青森・秋田・宮城などに勤務した。昭和2年(1927年)に南部杜氏組合石鳥谷支部長に就任し、理事を経たのちに副理事長に就任した。社団法人組織後、協会副会長を務め、のちに協会長に就任し、南部杜氏会館や南部杜氏研修場の建設などに尽力した。昭和23年には宮城県杜氏組合設立と同時に組合長に選任された。杜氏の育成にも力を注ぎ、指導にあたった弟子の数は百人を超えると言われている。
 昭和35年11月に石鳥谷町より産業振興発展に貢献したとして自治功労者として表彰され、39年には酒造技術の改善向上と後進の指導育成に力を注いだとして黄緩褒章を受賞している。昭和44年(1969年)10月3日に75歳で亡くなった。
波岡務なみおか つとむ 石鳥谷 ”社会教育の先駆者”
 文化8年(1811年)8月13日に盛岡で生まれた。北家に仕えながら寺子屋を開いて付近の子弟の教育にあたり、自ら従来物(当時の庶民教育の初等教科書)を作成した。文久元年(1861年)に作成した「農民竃建従来」は、藩内寺子屋本の中でも特に優れたものと言われている。明治18年(1885年)12月23日に74歳で亡くなった。広済寺墓地には明治18年に門人たちによって建立された「浪岡大人」の碑がある。
箱崎圭助はこざき けいすけ 石鳥谷 ”実業家、箱庄専務”
 明治21年(1888年)12月9日に戸塚で生まれた。大正3年(1914年)栃木県足尾鉱業所に入社したのち、花巻の箱庄商店の長女と結婚し家業の菓子種の営業に携わるようになる。箱庄の専務として、事業の発展に力を注いだ。昭和5年(1930年)ごろから和菓子の需要の変化と満州事変により需要が激減したが、軍需工場として乾燥味噌の製造に切り替え事業を立て直した。花巻経済会長、高木耕地整理組合長等を務めたほか、和賀仙人通運、稗和開発自動車等の経営にもあたった。昭和27年(1952年)4月27日64歳で亡くなった。
長谷川鳳吟はせがわ ほうぎん 石鳥谷 ”学制発布前の寺子屋師匠”
 長谷寺の住職。文政8年(1825年)に和賀郡岩崎(現北上市和賀町)で生まれた。長谷堂で長く教育にあたった長谷川鳳吟は、地域の住民からも尊敬を受けていた。明治35年(1902年)11月4日に78歳で亡くなった。明治31年8月18日に教え子や賛助者によって長谷堂に筆塚(教えを受けた門人が師に対して謝恩の意味で建てたもの)が建立された。
畠山郁之助はたけやま いくのすけ 石鳥谷 ”戦後の混乱期に八幡村政に尽力した”
 明治30年(1897年)6月4日、中寺林に生まれた。八幡尋常小学校を卒業後、家業に従事するが18歳の時に海軍に志願して横須賀海兵団にした。十二年間軍人として経歴を積んだが、昭和2年(1927年)兄が病死した為、家業を継ぐために帰郷した。中寺林の区長や消防幹部を務めたのを皮切りに、昭和8年には八幡村議会議員に当選。ほかにも農業会長や農地委員も務めた。
 さらには八幡村の消防団長を務めた。昭和26年八幡村長に就任し、戦後間もない中、教育施設の整備に尽力した。昭和30年に新生石鳥谷町が発足した際には、新町長誕生までの間助役を務めた。昭和48年(1973年)11月8日に77歳で亡くなった。
晴山萬次郎はれやま ぜんじろう 石鳥谷 ”大正期の社会教育と産業の振興に尽力した”
 明治9年(1876年)1月17日に南滝田で生まれる。明治28年に徴兵により入隊し、砲兵特務曹長で除隊した。除隊後は、八重畑村々会議員、稗貫郡会議員、郡参事員に当選し村政・群政にあたった。大正6年には八重畑村長に就任し、学校の統合、役場の移転など大規模事業に務めた。さらには八重畑村青年会の会長を務めたほか、八重畑地区の婦人たちの研修の場として設立された大正母道会の総理として指導にあたった。大正母道会の活動は高く評価を受け県より表彰を受けている。さらに、八重畑村学務委員として学校の管理監督にあたったほか、”八重畑村誌”の刊行に尽力した。八重畑村農会が設立されると、会長となり活躍した。昭和25年(1950年)5月29日に75歳で亡くなった。
平賀綱之助ひらか こうのすけ 石鳥谷 ”初代の花巻市長”
明治34年(1901年)4月23日、戸塚で生まれる。八重畑小学校、新堀小学校で教育にあたったのちに政界に進出し、昭和12年(1937年)と昭和17年(1942年)に花巻町議会議員を務める。昭和16年から21年まで県議会議員を務め、戦時中の町政、県政にあたった。昭和27年花巻町長に就任し、29年には初代花巻市長となり、笹間村との合併、花巻商業高等学校や谷村学院学校の開校、豊沢土地改良区による区画整理事業、市街地の交通緩和のための県内初の国道4号バイパス工事などに尽力した。市長退任後の昭和46年(1971年)7月28日、70歳で亡くなった。